昭和13、14年頃に、現国道27号線の西原町バス停から鷹栖町長瀬までの間を軍用道路(大阪と舞鶴を結び、戦車などを運ぶため)にするための拡幅工事が行われていた。
昭和16年には飯場がなくなっていたのでこの頃にここの工事は終了していたのではないかと思われる。
また、肥後橋(上林川が由良川に流れ出る場所にかかる)から釜輪町までの間の工事が昭和16年から始まったが太平洋戦争中には完了していなかった。
道路や橋が全て完成したのは戦後3・4年経ってからであった。
道路の工事は、つるはしとスコップを使い、土の運搬はトロッコでしていた。
由良川沿いの山は岩盤が多く、ダイナマイトを使って岩を取り除いていた。
釜輪の入口のところは、橋を架けるのでなく他の工事場所で出たたくさんの土をトロッコで運んで来て川を埋め、そこにトンネルを掘って川の水が由良川に流れ出るようにしていた。
この工事に従事していたのは朝鮮半島から来た多くの人たちであり、発破を仕掛けるなどの高度な技術をもった人たちが多かった。
半島から来た人たちは、トタンぶき屋根の丸太小屋の飯場で生活していた。
このような飯場が近辺にいくつあった。
綾部健康友の会の会員である西村太一郎さん(西原町)は、「自分の家の離れには現場監督の朝鮮人家族が生活していた。また、家の小屋は飯場になっていて、その中の三十才くらいの男の人に映画を見に自転車の後ろに乗り綾部まで連れて行ってもらったり、年末にはたこ作りを教えてもらったりした。」と、子どもの頃のことを語っておられた。

写真は、現在の肥後橋と現存する昔の橋の橋脚部分である。
外に、綾部市内久井町から舞鶴へぬける軍用道路の建設が終戦間近になって始められていた。
ここにも多くの朝鮮半島から来た人たちが働いていた。
しかし、終戦時にはほんの一部しか完成していなかった。