舘町、高槻町炭坑跡
戦争時には金属や燃料が大量に必要になってくる。
そのため太平洋戦争中に日本各地で質の悪いものも含めてそれらの素になるものが掘られていた。綾部においても舘町の段堂山(豊里中学校の北)周辺で亜炭を掘っていた。
亜炭とは質の悪い石炭といったようなもので、練炭などの原料になっていた。
坑道は山の斜面に四ヶ所ほど、その西側の田の中に二ヶ所あった。
(近年この地の田の一部が二ヶ所陥没したが、坑道のあったところであろうと考えられる。)
作業はつるはしやスコップで掘っていた。
掘られた亜炭はウインチを使って坑道から出され、トロッコに載せて選別所(元茶工場跡)まで運んでいた。
そして、選別されたものは牛車(べた)を使って綾部駅まで運んでいた。
働いていたのは、鉱脈などを見つける仕事をしていた職人4、5人と地元の人5、6人、それに動員された福知山中学校の学生達と朝鮮半島から来た人たちであった。
福中生は現綾部市の生徒が多く毎日自転車で通ってきていた。
朝鮮半島から来て働いていた人たちは5、6家族あった。仕事に来ていた人は、選別所の建物やバラック小屋のようなところで生活し、近所の農家で風呂をもらっていた。
戦後豊里中学校を作るとき、この炭坑の選別所の建物が移築されて体育館になった。
※写真は舘町段堂山の坑道入り口跡を確認しているところ
舘町と同じように亜炭を掘っていたところが高槻町にもある。
ここは明治30年頃から大阪の業者によって掘られていたが、長く閉鎖されていた。
昭和18年頃戦時協力の下で再び亜炭の採掘を大阪の業者が始めた。
掘ったものは大阪まで運んでいた。
ここでも朝鮮半島から来た三家族の人たちが働いていた。
この地では今も縦坑の跡が確認できる。
そのため太平洋戦争中に日本各地で質の悪いものも含めてそれらの素になるものが掘られていた。綾部においても舘町の段堂山(豊里中学校の北)周辺で亜炭を掘っていた。
亜炭とは質の悪い石炭といったようなもので、練炭などの原料になっていた。
坑道は山の斜面に四ヶ所ほど、その西側の田の中に二ヶ所あった。
(近年この地の田の一部が二ヶ所陥没したが、坑道のあったところであろうと考えられる。)
作業はつるはしやスコップで掘っていた。
掘られた亜炭はウインチを使って坑道から出され、トロッコに載せて選別所(元茶工場跡)まで運んでいた。
そして、選別されたものは牛車(べた)を使って綾部駅まで運んでいた。
働いていたのは、鉱脈などを見つける仕事をしていた職人4、5人と地元の人5、6人、それに動員された福知山中学校の学生達と朝鮮半島から来た人たちであった。
福中生は現綾部市の生徒が多く毎日自転車で通ってきていた。
朝鮮半島から来て働いていた人たちは5、6家族あった。仕事に来ていた人は、選別所の建物やバラック小屋のようなところで生活し、近所の農家で風呂をもらっていた。
戦後豊里中学校を作るとき、この炭坑の選別所の建物が移築されて体育館になった。

※写真は舘町段堂山の坑道入り口跡を確認しているところ
舘町と同じように亜炭を掘っていたところが高槻町にもある。
ここは明治30年頃から大阪の業者によって掘られていたが、長く閉鎖されていた。
昭和18年頃戦時協力の下で再び亜炭の採掘を大阪の業者が始めた。
掘ったものは大阪まで運んでいた。
ここでも朝鮮半島から来た三家族の人たちが働いていた。
この地では今も縦坑の跡が確認できる。
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