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「いつでも元気」誌のご紹介


2009年1月 No.207

2008年12月4日(木曜日)

飛行隊指揮所

カテゴリー: - ayatomo @ AM10:46
飛行隊指揮所跡

福知山市土区西端にある新しい住宅地の南の竹藪の中に、コンクリートで作られた建造物が残っています。その南側は高い岸になっており、上にはアキツKK前から雀部小学校へ続く旧道が通っています。

この建造物は、昭和20年8月22日付けの「海軍航空基地平面図(工事進捗図)」によると飛行隊指揮所となっています。
現在は土が覆いかぶさり上に竹が茂っているので分かりにくくなっていますが、海軍航空基地の施設の中で唯一完全な形で残っている戦争遺跡といえます。

この飛行隊指揮所は、分厚い鉄筋コンクリートで壁や屋根が造られており機銃掃射などに耐えられる構造になっています。大きさは4m×10mのもので、図(上から見たもの)のように入り口が両側にあり左右対称の形になっています。
平面図

中は八畳間が二間くらいの広さがあり、天井までは床が土で埋まっていますが2m近くあるのではないかと思われます。現在はコウモリのすみかになっています。

入り口は飛行場側の北面にあり、コンクリートの壁で守られような構造なっています。これは飛行場を攻撃されても爆風から内部を守れるように造られた屋ものと考えられます。
この建造物も多くの兵隊や朝鮮半島から来た人たちなどによって突貫工事で進められていただろうと思われます。
地元の人に聞くと終戦の日にもまだ作業をしていたようです。

記録によると終戦時80%完成していたとのことです。実際に使われることなく終戦を迎えたので、この施設がどのように使われるものであったかなどは明らかではありませんが、「指揮所」と工事関係者が記しているところから考えると、情報を集めたり、飛行隊等に指示を出す機能が置かれることになっていたのではないかと思われます。



2008年8月25日(月曜日)

海軍航空基地燃料庫跡

カテゴリー: - ayatomo @ PM1:31
佐賀燃料庫跡

佐賀小学校の西の谷間(高龍寺山北山麓)に崩れた横穴が10数個見られます。
今も少し中に入れるような隧道跡もあります。

アジア太平洋戦争終戦時には、谷間にあった棚田が埋められトロッコの軌道が各隧道まで敷かれていました。
そして、すでに隧道には航空機等の燃料を入れたドラム缶が運び入れられていました。
ここに燃料庫が造られたのは、由良川の南側に建設中の航空基地で使われる燃料を隠匿保存するためでした。

昭和20年の1月に「3月からはこの谷に入れなくなる。」と役場から住民へ伝えられ、その後秘密裏に工事が進められていきました。
工事に従事したのは海軍の将兵で、その中心になっていたのは滋賀海軍航空隊第27分隊第14期予科練習生(16〜19歳)でした。
この予科練生は佐賀国民学校(現佐賀小学校)の体育館兼講堂で生活し、燃料庫や飛行場、高射砲陣地の建設に毎日出かけていました。
将校や教官は別棟の木造校舎にいました。

工事は学校の北側に街道から谷の奥まで進入路を造り、その後隧道掘削工事に移りました。
作業は、可能な所はつるはし、スコップ、鍬などで掘り、岩に突き当たればダイナマイトを仕掛けるといった方法で行われました。
ダイナマイトの操作は兵隊が行っていました。
実際に掘られていた隧道は、高さ3メートル、幅2.5メートルぐらいで奥行きははっきりしていません。
穴の周りは松の丸太で枠を組み、それに矢板をかましていました。

この地に航空基地の燃料庫が造られたのは、飛行場との間に高い山(高龍寺山)があり、飛行場が爆撃された時も山に守られ被害を免れるからだと思われます。
また、南側(飛行場側)から見えないこともこの地が選ばれた理由と考えられます。


2008年7月4日(金曜日)

搭乗員待機所(掩体壕)

カテゴリー: - ayatomo @ AM11:48

えんたいごう
海軍福知山航空基地やそれに関連した施設の中でただ一つ最近まで多くの人の目に触れられていたものが「搭乗員待機所」です。
この待機所は、福知山市土区の広域農道近くの田の中に残っていました。
近くの住民の方たちに「掩体壕」(えんたいごう)と呼ばれ、戦後は農具の倉庫として使われていました。

この掩体壕は幅1.5m、長さ10m、高さ2mのかまぼこ型をしたコンクリート製の建造物で、中ほどの屋根には空気ぬきの筒が立っていました。
コンクリートの厚さは50cmあり爆弾に耐えるられるようになっていました。
航空基地の滑走路近くにあり、空襲の時に隠れる所がなかったために造られたものと考えられます。
中は人が数十人入れる広さがあり、立って歩くことのできる十分な高さがありました。
この建造物も滑走路や他の施設などと共に、昭和19年末から予科練生、徴用工、朝鮮半島から来た人たちなどの手によって建設されていたものと考えられます。


えんたいごうの碑
戦後60年造られたままで残っていましたが、2004年頃西中筋基盤整備事業(圃場整備)で耕地整理される圃場にかかるので掩体壕を潰すという話を航空基地を調査中の私たちは聞きました。
先の戦争を語る貴重な史料として「掩体壕」を残したいとの想いで地域の方々や私たち調査を進める者たちで「掩体壕を残す会」を結成し福知山市当局と話し合いを進め、結果として一部保存することになりました。現在、福知山市石原にあります日新コミセン(日新地域公民館)の裏庭に写真のような形で保存されています。


2008年5月2日(金曜日)

海軍福知山航空基地跡

カテゴリー: - ayatomo @ AM9:19
前回までは綾部市にある戦争遺跡について書いてきました。
今回から海軍福知山航空基地(通称石原飛行場)とその周辺にある関連施設跡について書いてみます。

下の写真は昭和20年8月22日の日付のある図面です。
名称は「福知山航空基地平面図」と記され、航空基地にどのような施設が作られていたか、その工事の進捗状況はどの程度だったかや工事方法、施設の規模などが記載されています。

海軍福知山航空基地図面



これは、終戦直後に進駐してきた米軍に報告するために作成された図面だと考えられます。
終戦一週間後に進駐軍がこのように詳しい報告させていることに驚きます。

現在この図(コピーのようです)は福知山城の中にある市の資料館に保存されています。
海軍福知山航空基地について公式に記録されたものとしては今のところこの図しかありません。
昭和22年11月に米軍が撮影した飛行場周辺の航空写真が残っていますが、それを見ると滑走路跡(すでに一部農民の方がコンクリートをはがしている)などがよく分かります。

航空基地の中心になっているのが滑走路です。
進捗図に記載されている記録によると、長さ1,700メートル、幅50メートルになっています。
そして、その両側(南北)に幅80メートルの飛行機待機列線(飛行機を並べておく場所)が造られていました。

位置は、現在の広域農道のところで、範囲はほぼ戸田の信号の所から前田の信号の所までです。

構造はコンクリート造りで、西の端の一部だけはぐり石を敷きその上に金網を張っていました。

戦後このコンクリートをめくって農地にもどされた農民の方たちの苦労は大変なものであったようです。
このことは、戸田の信号の横に移設された「復旧記念碑」の碑文を読んでみるとよく分かります。

この滑走路でどれだけの飛行機が離着陸したかは分かりませんが、昭和19年の10月から建設を初め20年の6月頃に完成したということですのでそんなに多くはないと思います。

次回から少しずつ基地内外の施設の跡を紹介していきます。

※関連記事:戦闘機の車輪か?

2007年12月21日(金曜日)

舘町、高槻町炭坑跡

カテゴリー: - ayatomo @ AM11:00
戦争時には金属や燃料が大量に必要になってくる。
そのため太平洋戦争中に日本各地で質の悪いものも含めてそれらの素になるものが掘られていた。

綾部においても舘町の段堂山(豊里中学校の北)周辺で亜炭を掘っていた。
亜炭とは質の悪い石炭といったようなもので、練炭などの原料になっていた。

坑道は山の斜面に四ヶ所ほど、その西側の田の中に二ヶ所あった。
(近年この地の田の一部が二ヶ所陥没したが、坑道のあったところであろうと考えられる。)

作業はつるはしやスコップで掘っていた。
掘られた亜炭はウインチを使って坑道から出され、トロッコに載せて選別所(元茶工場跡)まで運んでいた。
そして、選別されたものは牛車(べた)を使って綾部駅まで運んでいた。

働いていたのは、鉱脈などを見つける仕事をしていた職人4、5人と地元の人5、6人、それに動員された福知山中学校の学生達と朝鮮半島から来た人たちであった。

福中生は現綾部市の生徒が多く毎日自転車で通ってきていた。
朝鮮半島から来て働いていた人たちは5、6家族あった。仕事に来ていた人は、選別所の建物やバラック小屋のようなところで生活し、近所の農家で風呂をもらっていた。
戦後豊里中学校を作るとき、この炭坑の選別所の建物が移築されて体育館になった。

画像舘037.jpg


※写真は舘町段堂山の坑道入り口跡を確認しているところ

舘町と同じように亜炭を掘っていたところが高槻町にもある。

ここは明治30年頃から大阪の業者によって掘られていたが、長く閉鎖されていた。
昭和18年頃戦時協力の下で再び亜炭の採掘を大阪の業者が始めた。
掘ったものは大阪まで運んでいた。
ここでも朝鮮半島から来た三家族の人たちが働いていた。

この地では今も縦坑の跡が確認できる。


2007年11月14日(水曜日)

軍用道路の建設

カテゴリー: - ayatomo @ PM12:56

昭和13、14年頃に、現国道27号線の西原町バス停から鷹栖町長瀬までの間を軍用道路(大阪と舞鶴を結び、戦車などを運ぶため)にするための拡幅工事が行われていた。
昭和16年には飯場がなくなっていたのでこの頃にここの工事は終了していたのではないかと思われる。

また、肥後橋(上林川が由良川に流れ出る場所にかかる)から釜輪町までの間の工事が昭和16年から始まったが太平洋戦争中には完了していなかった。
道路や橋が全て完成したのは戦後3・4年経ってからであった。

道路の工事は、つるはしとスコップを使い、土の運搬はトロッコでしていた。
由良川沿いの山は岩盤が多く、ダイナマイトを使って岩を取り除いていた。

釜輪の入口のところは、橋を架けるのでなく他の工事場所で出たたくさんの土をトロッコで運んで来て川を埋め、そこにトンネルを掘って川の水が由良川に流れ出るようにしていた。

この工事に従事していたのは朝鮮半島から来た多くの人たちであり、発破を仕掛けるなどの高度な技術をもった人たちが多かった。
半島から来た人たちは、トタンぶき屋根の丸太小屋の飯場で生活していた。
このような飯場が近辺にいくつあった。

綾部健康友の会の会員である西村太一郎さん(西原町)は、「自分の家の離れには現場監督の朝鮮人家族が生活していた。また、家の小屋は飯場になっていて、その中の三十才くらいの男の人に映画を見に自転車の後ろに乗り綾部まで連れて行ってもらったり、年末にはたこ作りを教えてもらったりした。」と、子どもの頃のことを語っておられた。

昔の橋の橋脚部分

写真は、現在の肥後橋と現存する昔の橋の橋脚部分である。

外に、綾部市内久井町から舞鶴へぬける軍用道路の建設が終戦間近になって始められていた。
ここにも多くの朝鮮半島から来た人たちが働いていた。
しかし、終戦時にはほんの一部しか完成していなかった。


2007年8月23日(木曜日)

小貝山高射砲台跡

カテゴリー: - ootomo @ AM10:11

小貝山(写真)は、綾部市小貝町にあり現在「創造の森」として公園化されている山である。
ここに太平洋戦争末期高射砲が六門配備されていた。
現在山の頂上に登ってみると、平地が広がっている。草が茂っている中をかき分けてみると、いくつかの窪地を見つけることができる。
これが砲身五、6メートルくらいの高射砲が据え付けられていた砲座と兵隊の待避壕跡である。
頂上の部分に4門、西斜面を少し下った所に二門高射砲が据えられていた。

高射砲が配備されていた小貝山

この高射砲台は、昭和19年(1944年)の秋頃から海軍の将兵によって建設が進められていた。
兵隊達は以久田尋常小学校の体育館や特別教室に宿泊して建設に通っていた。
高射砲は地面を少し掘り下げた砲座に杭で四カ所を固定したものであり、砲自体も古いものであったと言われる。
この砲台は、由良川を挟んだ南側に造られていた福知山海軍航空基地(通称石原飛行場)を空襲から守るために配備されたのである。


建設終了後も100人くらいの兵隊が小貝の村の農家で風呂をもらったり、公民館で食事を作ったりして24時間体制で守りについていた。
結果的にはこの砲台から一発も砲を撃ったことがなかったが、もし飛来した爆撃機などを攻撃していたらこの付近はどんな報復を受けていただろうかなどと考えると恐ろしくなる。


2007年6月13日(水曜日)

高槻町の火薬廠跡

カテゴリー: - ootomo @ PM12:35

太平洋戦争が終わりに近づいた頃、綾部市高槻町に火薬廠(神奈川県平塚にあった第二火薬廠と言われる)を疎開させるという計画が伝えられた。
火薬廠とは戦争で使う砲弾や弾丸を製造するところである。

隣の舞鶴には第三火薬廠(第三火薬廠になったのは昭和16年4月であり、外の地に第一、第二火薬廠があった)が戦前からあった。
周りを山に囲まれた菅谷(現綾部球場付近)が候補地となった。


軍から土地や立木を提供するように要請があり、地元としては苦しい決断だったが無償で提供した。
菅谷には二軒の民家があったが、これも軍の命令により強制的に移転させられた。
 
工事は突貫工事で進められ、終戦時には何棟かの倉庫と司令所や監視所ができていた。
この工事に従事していた徴用工は高槻町の公民館に、将兵や火薬廠の役人は農家の離れなどに宿泊していた。
今も公民館の西側に増築された部分が残っているが、これは将校が寝泊まりするために造られたものである。

当時の火薬廠の倉庫を移設した作業場
高槻町の集落へ少し入った所の道路沿いにある作業場(写真)は、当時完成していた火薬廠の倉庫を移築したものである。


2007年4月9日(月曜日)

戦闘機の車輪か?

カテゴリー: - ootomo @ PM12:47

先日、海軍福知山航空基地(通称石原飛行場)関連戦争遺跡のフィールドワークを行った。

この飛行場は、太平洋戦争末期に予科練習生の訓練のため、近くの工場で製造される戦闘機(紫電改)のテスト飛行をするため、また本土決戦に備えて建設されていた。
今回は、数多くある飛行場関連施設の一つである「燃爆格納隧道」を、近くに在住の方に案内してもらった。
戦後に撮られた航空写真を見せていただくと、飛行場の滑走路の姿が映し出されていた。


今までは現存する「海軍福知山航空基地建設工事進捗図」ぐらいしか当時の飛行場の姿がわかるものは無かったので、参加者一同驚きにつつまれた。
また、参加者の一人が直径30cm.くらいのゴム製の車輪のようなもの(写真)を持ってこられていた。

飛行機の車輪!?

飛行機の車輪ということで、終戦後家に持ち帰り保存していたということであった。
一個だけなので前輪か後輪か分からないので教えてほしいということだったが、参加者では分からなかったので近くにお住まいの戦闘機にくわしい方を紹介するにとどまった。

私たちサークルに参加する者は現地見学会をするたびに参加者から新しい情報を提供していただき、次の調査への意欲がわいてきます。


2007年2月16日(金曜日)

はじめに

カテゴリー: - ootomo @ PM9:12

この1月、綾部平和委員会の平和学習ツアーで広島県竹原市の「大久野島」に行かれた友の会会員さんも多くおられるのではないでしょうか。
この島は戦前から毒ガス兵器を製造していた島で、戦争中は地図からも消されていた秘密の島でもあったのです。

大久野島 大久野島
▲綾部平和委員会平和学習ツアー:広島県竹原市「大久野島」

私も一昨年夏、この平和ツアーに同行させてもらい、長野県の「松代大本営地下壕群」を見学してきました。ここは、太平洋戦争での日本の敗戦が色濃くなった頃(1944年秋)、戦争の最高統帥機関であった大本営や天皇、皇族、政府機関、日本放送協会(現NHK)など、国家と軍の中枢を首都東京から松代町に移転して本土決戦に備えようと地下壕などを掘っていたところなのです。
壕内や地上部の施設を見学したりお話を聞いたりして、あらためて先の戦争について考えさせられることがありました。

私は終戦の年に生まれた戦後世代です。太平洋戦争などについては、学校で学んだり、本を読んだり、兵隊として戦争に行った父親から話を聞いたりして知ったことぐらいの知識しかありません。いわゆる体験がないのです。
しかし、戦争に関わる本物(戦争遺跡や体験者のお話など)に触れると追体験ができるのです。
日本各地、世界各地に戦争と関わった建造物や遺構、跡地などがあります。
これは全て私たちに「戦争」を語りかけてくれる貴重な戦争遺跡なのです。

大久野島や松代大本営地下壕群はまさに後世に「戦争」を語り継ぐ戦争遺跡なのです。

『「戦争の世紀」から「平和の世紀」へ。二十一世紀を迎え、私たちは平和への誓いを新たにしました。しかし、この数年のあいだにアフガン戦争からイラク戦争へと戦禍が絶えません。戦争と平和‐その岐路に立っている今こそ、幾多の過ちを犯した過去の戦争について戦争遺跡から学び、ふたたび「戦争遺跡をつくらない」決意が大切になっています。』

これは、大日方悦夫氏(戦争遺跡保存全国ネットワーク)が著書の中で述べられているものです。
国内的に見ても、戦後が終わり戦前の時代に入っているような今日、あらためて先の戦争について学び、再び「戦争遺跡」を作らないようにしたいものです。

私たちが住んでいる綾部にも戦争遺跡は存在します。
隣の福知山市(二十連隊関係の遺跡が多い)や舞鶴市(海軍関係の遺跡多数)に比べて、その間にある綾部については両市ほど多くの遺跡はありませんがいくつか見られます。

私は、中丹地域の歴史と文化を掘りおこす会のメンバーと共に、この地方に残る戦争遺跡についての聞き取りや現地調査をおこなってきました。
その一部を紹介して、みなさんに先の戦争をふり返り平和について学んでいただく何かに役立てばと思っています。

※参考:blank>戦争遺跡保存全国ネットワーク
     blank>毒ガス島歴史研究所
     松代大本営と「慰安所」


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